はじめに:事業承継は、社長の「最後の仕事」
中小企業オーナーの最大の悩み「自社株」の承継問題
事業を興し、幾多の困難を乗り越えて会社を成長させてきたオーナー社長にとって、事業承継は、ご自身のキャリアの集大成ともいえる、最も重要な「最後の仕事」です。
後継者を誰にするか、いつ事業のバトンを渡すか――。悩みは尽きませんが、その核心には、常に「自社株式」の問題が横たわっています。自社株式は、単なる資産ではありません。それは会社の経営権そのものであり、また、多くのオーナー社長にとっては、個人資産の大部分を占める財産でもあります。
「経営権の安定」と「遺留分への配慮」という二大課題
ここに、事業承継における大きなジレンマが存在します。
会社の永続的な発展のためには、後継者に株式を集中させ、「経営権の安定」を図らなければなりません。株式が分散すれば、経営の意思決定が滞ったり、最悪の場合、経営権を脅かされたりするリスクがあるからです。
しかし、もう一方では、会社経営に関与しない次男にも、相続人として「遺留分」(法律で保障された最低限の遺産取得分)を相続させる権利があります。自社株が財産の大部分を占める場合、長男に株式を集中させることは、必然的に次男の遺留分を侵害することになり、将来「お家騒動」と呼ばれる深刻な相続争いを引き起こしかねません。
この難問を解決する鍵としての信託
この二律背反に見える難問に対し、法的に有効な解決策となりうるのが「信託」の活用です。
信託は、株式が持つ二つの側面、すなわち「議決権(経営権)」と「財産権(配当等を受け取る権利)」を法的に分離し、それぞれを異なる人物に承継させることを可能にします。
この記事では、社長の想いを形にし、会社の未来と家族の平和の両立を目指すための、戦略的な選択肢「事業承継信託」について、その具体的な設計術を解説していきます。
【モデルケース】もし、自社株の相続で「お家騒動」が起きたら…?
登場人物
- 社長(Aさん・68歳): 地方で優良な製造業「X株式会社」を一代で築き上げたオーナー社長。会社の株式は100%自身で保有。事業は順調だが、自身の年齢を考え、事業承継を本格的に検討し始めた。
- 長男(Bさん・42歳): 大学卒業後、X社に入社。現場からキャリアを積み、現在は専務取締役としてA社長の右腕となっている。従業員からの信頼も厚く、A社長が考える唯一の後継者。
- 次男(Cさん・38歳): 都心で建築士として独立し、成功を収めている。父の事業には関与していないが、家族仲は良好。父の財産については、自分にも相応の相続権があると考えている。
想定される課題:会社の全財産ともいえる「自社株」を巡る、将来の紛争リスク
ある日、A社長は顧問税理士との面談で、自社の理論株価が想定以上に高騰していることを知らされます。そして、A社長の個人資産の実に9割が、この自社株で占められているという現実を再認識しました。
ここで、A社長は深刻な問題に直面します。
会社の経営を安定させるには、後継者である長男Bに、経営権の源泉である自社株のすべてを相続させたい。しかし、そうすると、経営に関与していない次男Cに渡せる財産は、預貯金など、わずかになってしまいます。
これでは、Cの「遺留分」(法律で定められた最低限の遺産取得分)を大きく侵害することになります。
【起こりうるワースト・シナリオ】 もしA社長が「全株式を長男Bに相続させる」という遺言書だけを残して亡くなった場合、どうなるでしょうか。
次男Cは、遺留分を侵害されたとして、Bに対してその不足分を金銭で支払うよう請求(遺留分侵害額請求)する権利があります。株価が高騰している場合、その請求額は数千万円、あるいは億単位になる可能性もあります。
後継者であるBは、その現金をどこから捻出すればよいのか。個人の資産で賄いきれなければ、会社から借り入れるか、最悪の場合、会社の資産を売却したり、相続した株式の一部を売却したりする必要に迫られるかもしれません。
そうなれば、会社の財務基盤は大きく揺らぎ、経営は一気に不安定になります。
「長男には、安心して経営に専念させたい」 「次男にも、親として公平に財産を残してやりたい」 「そして何より、兄弟の仲を、自分の財産のせいで壊したくない」
A社長は、会社の未来と家族の平和の板挟みとなり、自身の「最後の仕事」のあまりの難しさに、頭を抱えてしまうのです。
なぜ信託スキームを利用するのか?4つの重要論点
モデルケースのA社長が抱える、この絶望的に見える「板挟み」状態を、どのように解決すればよいのでしょうか。ここで鍵となるのが、信託と、ある法的な仕組みの組み合わせです。4つの重要論点に沿って、その解決策を解き明かしていきます。
制度比較①:なぜ「遺言」だけでは危険なのか?
まず、A社長が「全株式を長男Bに相続させる」という遺言書を作成しても、問題は解決しません。なぜなら、次男Cには「遺留分」という、法律で強力に保護された権利があるからです。
遺留分とは、兄弟姉妹以外の相続人に保障された、最低限の遺産の取り分を指します。たとえ遺言書に「財産はすべて長男へ」と書かれていても、遺留分を侵害された次男Cは、長男Bに対して、侵害された分に相当する金銭を支払うよう請求(遺留分侵害額請求)できます。
会社の株価が高騰している場合、この請求額は非常に高額になります。後継者であるBは、その支払いのために会社の資産から調達したり、相続したばかりの株式を売却したりせざるを得なくなり、結果として会社の経営を揺るがす「お家騒動」に発展するリスクを、遺言だけでは防ぎきれないのです。
制度比較②:「種類株式」と「信託」の最強タッグ
この問題を解決する鍵は、株式が持つ二つの権利、すなわち「議決権(経営に参加する権利)」と「財産権(配当などを受け取る権利)」を法的に分離することです。
これを可能にするのが「種類株式」という制度です。会社法では、会社の定款を変更することで、例えば以下のような、普通株式とは異なる権利を持つ株式を発行することが認められています。
- 議決権制限株式: 株主総会での議決権が全くない、または一部の事項についてのみ行使できる株式。
- 配当優先株式: 他の株式よりも優先的に配当金を受け取ることができる株式。
そして、これらの定めを組み合わせることで、「議決権はないけれども、その分、配当は優先的に受け取れる」といった、柔軟な設計の株式を作ることができるのです。
そして、この種類株式の仕組みを、社長の死後、間違いなく、かつ円滑に実行するための法的な「器」となるのが「信託」です。
さらに、遺言による相続では、遺産分割協議がまとまるまで、株式の帰属が確定しない期間が生まれてしまいます。この経営権の空白期間は、会社の信用不安や重要決定の遅延を招き、事業にとって大きなリスクとなります。
一方、信託であれば、社長の死亡と同時に、信託契約で定められた通りに後継者(または後継者を受託者とする信託)が**即座に議決権を行使できます。**相続手続きとは切り離されているため、経営のバトンタッチがスムーズに行われ、事業が止まることはありません。これは、会社と、その未来を託された後継者を守るための、強力な防衛策となるのです。
事業承継信託の「設計図」- 基本契約とスキームを理解する
これまでの論点を踏まえ、モデルケースにおける「事業承継信託」の具体的な設計図を見ていきましょう。社長の想いを法的に実現するための、契約の骨子です。
【目的】 会社の永続と、全相続人への配慮(信託目的)
信託契約の冒頭で、この信託が何を目指すのか、その理念と目的を明確に宣言します。これが、後継者である受託者が守るべき指針となります。
【契約書の条文イメージ】 第1条(信託目的) 本信託は、委託者Aが保有するX株式会社の株式を一体として管理・維持し、後継者である長男Bへの経営権の円滑な承継を図るとともに、相続人全員の遺留分に配慮した資産の分配を実現し、もってX株式会社の永続的な発展と親族の円満に資することを目的とする。
このように、会社の安定経営と、家族への配慮という二つの目的を掲げることで、信託全体の方向性が定まります。
【登場人物】 誰を「受益者」に、誰を「受託者」にするか?(当事者)
このスキームの成功の鍵は、登場人物の役割を精密に設計することにあります。ここでは「自己信託」という手法を活用します。
- 委託者(財産を託す人): 社長A
- 受託者(株式を管理・議決権を行使する人): 当初は委託者である社長A自身。Aの死亡後は、後継者である長男B。
- 受益者(経済的利益を得る人): 当初は社長A自身。Aの死亡後は、長男Bと次男C。
【補足:自己信託とは】 信託は通常、委託者と受託者という二者間の「契約」で成立しますが、信託法では、委託者自身が受託者となる「自己信託」が認められています。これは、社長Aが「私の株式を、事業承継の目的のために、私自身が受託者として管理します」と公正証書によって宣言することで成立します。これにより、社長が元気なうちは外部の誰にも経営権を渡すことなく、将来の承継の仕組みだけを法的に確定させられるという大きな利点があります。
【財産】 信託の核となる「自社株式」の取り扱い(信託財産)
この信託の核となる財産は、もちろん「自社株式」です。
- 信託財産: 社長Aが保有するX株式会社の普通株式のすべて。
社長Aは、元気なうちに、この全株式を信託財産とする「自己信託」を設定します。そして、信託契約書の中に、「社長Aの死亡後、第二受託者(長男B)は、信託された株式の一部を議決権制限株式に転換し、その受益権を次男Cに与える」といった具体的な指示を書き込んでおくことで、将来の実行を法的に担保します。
【スキーム】 モデルケースにおける信託の全体像
これまでの設計項目を統合すると、今回の信託スキームの全体像は以下のようになります。
【準備・契約段階】(社長が元気なうち) 社長Aが、公正証書によって「自己信託」を設定します。これによりAは「委託者」兼「当初の受託者」兼「当初の受益者」となり、保有する全株式を信託財産とします。この段階では、実質的な所有・経営関係に変化はありません。
【社長Aの生存中】 Aは引き続き、社長として、また信託の受託者・受益者として、会社の経営と株主としての権利行使をこれまで通り行います。
【相続発生時(社長Aの死亡時)】 信託契約の条項が自動的に発動します。
- 受託者の変更: 受託者の地位が、第二受託者として指定されていた長男Bに引き継がれます。
- 経営権の掌握: 長男Bは、新たな受託者として全株式の議決権を掌握し、即座に安定した会社経営を開始できます。遺産分割協議を待つ必要は一切ありません。
- 受益者の変更: 受益権が、契約で定められた割合で長男Bと次男Cに移ります。
【承継後】 会社が生み出す利益(配当など)は、受益者であるBとCに分配されます。これにより、次男Cは経営に関与することなく、遺留分に配慮された経済的な利益を享受し続けることができます。「経営」は長男B、「資産」はBとC双方へ、という分離が実現し、円満な事業承継が完了します。
まとめ:信託は、次世代へ贈る「最高の事業計画」
今回のポイントの振り返り
事業承継の最大の課題は、後継者への「経営権」の集中と、非後継者への「遺留分」への配慮という、二律背反の解決にあります。
- 「信託」と「種類株式」を組み合わせることで、「経営権」と「財産権」を分離し、この難問を法的に解決する道筋をつけることができます。
- これにより、後継者は経営に専念でき、非後継者も経済的な利益を享受できるため、「会社の安定」と「家族の円満」の両立を目指せます。
- 信託契約書に、将来の後継受託者の選任方法まで定めておくことで、創業者の想いを何世代にもわたって繋ぐ、長期的な仕組みを構築可能です。
社長の想いを未来永劫に繋ぐ、究極のリスクマネジメント
事業承継信託は、単なる相続対策のテクニックではありません。それは、オーナー社長がご自身の人生を懸けて築き上げてきた会社の理念、文化、そして未来へのビジョン、いわば会社の魂そのものを、次世代へ、さらにその先の世代へと、円滑に引き継いでいくための「創業者としての最後の事業計画」です。
それはまた、愛する家族全員の幸せを願い、将来起こりうる争いの芽を摘み、円満な関係が続くことを願う、究極のリスクマネジメントでもあります。
ご自身が元気なうちに、会社の未来と家族の未来の両方を見据えた、緻密で愛情のこもった「設計図」を遺すこと。それこそが、オーナー社長が成し遂げるべき、真の「最後の仕事」なのかもしれません。
民事信託を活用した事業承継について、詳しいことをお知りになりたい場合は当事務所までお気軽にご相談ください。
☟