より手軽に、より確実に。「デジタル遺言制度」の検討状況と相続の未来

遺言・相続

はじめに

これまで、遺言書の作成はどこか「面倒で、ハードルが高い」ものでした。全文を手書きしなければならない厳格なルール、あるいは公証役場まで出向いて作成する手間と費用。そうしたイメージが、多くの人を遺言作成から遠ざけていた一因かもしれません。

しかし、その状況を大きく変える可能性を秘めた「デジタル遺言」制度の創設が、今、法務省の法制審議会で本格的に検討されています。2025年7月に中間試案が公表され、相続対策のあり方が新たな時代を迎えようとしています。

この記事では、現在公表されている情報をもとに、この新しい制度がどのようなものか、私たちにとって何が変わり、どう向き合っていくべきかを解説します。


そもそも「デジタル遺言」制度とは?

まず、なぜ今、遺言のデジタル化が求められているのか、そして、どのような制度が検討されているのかを見ていきましょう。

なぜ今、デジタル化が必要なのか?

日本の遺言作成率は、欧米諸国に比べて非常に低いのが現状です。その背景には、前述した作成の手間や費用の問題があります。高齢化社会がさらに進む中で、遺言がないことによる相続トラブルや、所有者不明の不動産問題は深刻化しています。そこで、遺言作成のハードルを下げ、誰もが当たり前に利用できる社会インフラにすることを目指して、デジタル化の議論が始まりました。

現在検討されている制度の概要

中間試案で示された主なポイントは以下の通りです。

  • パソコンやスマートフォンで作成:本文の全文手書きが不要になり、パソコンなどで作成した文書をデータとして利用できます。
  • マイナンバーカードで本人確認:作成者が本人であることを担保するため、マイナンバーカードに格納された電子署名を活用した、厳格な本人確認が想定されています。
  • 法務局でデータを保管:作成された遺言データは、現在の自筆証書遺言保管制度と同様に、法務局などの公的機関で安全に保管される案が有力です。これにより、紛失・改ざん・隠匿といったリスクを大幅に減らすことができます。

デジタル遺言で、遺言のあり方はどう変わるか

デジタル遺言制度が実現すれば、私たちの遺言との向き合い方は大きく変わる可能性があります。ここでは、そのメリットと、残された課題の両面を見ていきましょう。

3つの大きなメリット

  1. 圧倒的な「手軽さ」 最大のメリットは、作成のハードルが劇的に下がることです。パソコンやスマートフォンさえあれば、時間や場所を選ばず、思い立った時に遺言を作成・修正できます。全文手書きの労力や、公証役場へ出向くといった時間的・物理的な負担から解放されることで、より多くの人が遺言を身近なものとして考えられるようになるでしょう。
  2. 確実な「安全性」 自宅で保管される自筆証書遺言は、災害による紛失、家族による隠匿や改ざんといったリスクがありました。デジタル遺言が法務局などの公的機関でデータとして保管されるようになれば、これらのリスクはほぼゼロになります。相続が始まった際に相続人が遺言の存在を照会するのも容易になり、故人の意思が確実に引き継がれる体制が整います。
  3. 明快な「コスト」   公正証書遺言は、その信頼性の高さと引き換えに、遺産額に応じて数万円から数十万円の費用がかかります。デジタル遺言の具体的な手数料はまだ決まっていませんが、制度の普及を目指す観点からも、公正証書遺言よりは費用を抑えられる可能性が高いと考えられています。

残された課題と注意点

一方で、デジタル化には新たな課題も伴います。

  1. デジタル・デバイド(情報格差)   パソコンやスマートフォンの操作に不慣れな高齢者の方が、かえって制度を利用しにくくなるのではないか、という懸念です。誰もが恩恵を受けられるよう、ITが苦手な人へのサポート体制をどう構築するかが課題となります。
  2. なりすまし・情報漏洩のリスク   マイナンバーカードと暗証番号が第三者に渡ってしまった場合、「なりすまし」によって不正な遺言が作成されるリスクはゼロではありません。私たちは、これまで以上に自身のデジタル情報に対する、高いセキュリティ意識を持つことが求められます。
  3. 本人の「真意」の担保   公正証書遺言では、公証人が直接本人と面談し、その意思と判断能力を確認します。デジタル遺言において、 本人が自由な意思で作成したことをどう担保するかは、制度設計における最も重要な論点の一つです。

時代は変わっても、変わらない「遺言の本質」

デジタル遺言という新しい選択肢は、遺言のあり方を大きく変える可能性を秘めています。しかし、どんなに形式が便利になっても、遺言に込められた本質的な意味は決して変わりません。

「手軽さ」が「先延ばし」の言い訳をなくす

「仕事が忙しくて時間がない」「手続きが面倒だ」。こうしたことは、デジタル遺言制度が始まり、普及すれば徐々に解消していくでしょう。

より手軽に作成できる環境が整うということは、裏を返せば、先延ばしにする言い訳がなくなるということです。デジタル化は、私たち一人ひとりが、自身の終活とより真剣に向き合うべき時代の到来を意味しているのかもしれません。

なぜ、元気なうちに遺言を残すべきなのか

これは、時代がどう変わろうとも、決して揺らぐことのない大原則です。遺言は、ご自身が正常な判断能力を持っている時にしか、有効に作成することはできません。認知症などで判断能力が不十分になってしまってからでは、もう手遅れなのです。

遺言がないことで、ご自身の資産が凍結されたり、残された家族が「争族」で心を痛めたりする。そうした悲劇を未然に防ぐことこそが、遺言の最大の目的です。

最高の贈り物は「安心」というメッセージ

全文手書きから、いずれはデジタルのデータへ。遺言の「かたち」は、時代と共に変わっていきます。しかし、そこに込められた「残される家族に負担をかけたくない」「自分の想いを伝えたい」という愛情や配慮の本質は、決して変わりません。

元気なうちに、ご自身の意思を明確な形で残しておくこと。それこそが、あなたが未来の家族へ贈ることのできる、最高の「安心」というメッセージなのです。

執筆者 池上行政書士事務所 池上 功(池上行政書士事務所のホームページ