はじめに
中小企業の経営者や、アパート・マンションを経営するオーナーにとって、ご自身の資産と事業は、切っても切り離せない一体のものです。そのため、人生の終焉に備える「終活」は、単なる個人の問題ではなく、従業員や取引先、といった多くの人々の生活に影響を与える「事業承継」の問題と直結します。
想像してみてください。もし、会社の代表であるあなた自身が、認知症によって判断能力を失ってしまったら――。
経営者個人の資産が凍結されると、会社の銀行口座からの引き出しや、融資の実行、取引先への支払いができなくなる可能性があります。従業員の給与支払いが遅れ、事業はいきなり立ち行かなくなるかもしれません。
この記事では、経営者が陥りがちな相続対策の落とし穴を指摘し、あなた個人の資産と、あなたが心血を注いで育ててきた事業の両方を確実に守るための最適解について、特に「家族信託」の活用法に焦点を当てて解説していきます。
経営者にこそ、生前対策が不可欠なのはなぜか?
ご自身の代で築き上げた事業や資産を、次世代へ円滑に引き継ぐ。それは経営者の最後の、そして最も重要な仕事の一つです。しかし、何の対策も講じなければ、たった一つのきっかけで、そのすべてが立ち行かなくなる深刻なリスクを抱えています。
【リスク① 意思決定者の不在】社長の資産凍結=会社の機能停止
最大のリスクは、経営者ご自身の判断能力の低下による「資産凍結」です。会社の重要な意思決定、例えば、銀行からの融資契約、取引先との基本契約、従業員の雇用契約などは、すべて代表者であるあなたの署名・捺印があって初めて成立します。
もしあなたが認知症になり、これらの契約行為ができなくなれば、事業は完全に停止します。アパート経営においても同様で、大規模修繕の契約や、新規入居者との賃貸借契約ができなくなり、経営は頓挫してしまうのです。
【リスク② 遺産分割による経営危機】自社株・収益不動産の分散
次に訪れるのが「相続」による危機です。生前の対策がないまま相続が発生すると、経営の根幹を揺るがす事態に発展しかねません。
- 自社株の分散: 会社の株式(自社株)は、遺産分割の対象です。遺言がない場合、株式は法定相続人に分散してしまいます。その結果、後継者と定めていた長男が経営に必要な議決権を確保できず、経営に関心のない他の相続人から「株を買い取ってほしい」と要求され、会社が深刻な資金難に陥るケースは後を絶ちません。
- 収益不動産の共有化: アパートなどの収益不動産が相続人の「共有名義」になるのも、典型的なトラブルの元です。共有不動産は、売却や大規模修繕といった重要な変更行為には共有者全員の同意が必要となります。また、アパートを「売りたい人」と「持ち続けたい人」で意見が対立し、何の意思決定もできないまま、不動産が「塩漬け」状態になってしまうことも起こりえます。
経営者が陥りがちな「間違った対策」
事業承継や資産凍結のリスクに対し、良かれと思って準備した対策が、実は不十分であったり、かえって事態を悪化させたりするケースがあります。ここでは、経営者が特に陥りやすい2つの「間違った対策」を解説します。
「遺言書さえあれば大丈夫」という誤解
相続トラブルへの備えとして、まず「遺言書」の作成を思い浮かべる方は多いでしょう。後継者に自社株や事業用資産を集中させる旨の遺言書を準備しておくことは、円滑な相続のために非常に重要です。
しかし、その効力は、あくまであなたが亡くなった後にしか発生しません。
つまり、遺言書は、あなたが生きている間に認知症などで判断能力を失った際の「資産凍結」リスクに対しては、全くの無力なのです。事業が機能停止に陥る最大のリスクを、遺言書だけでカバーすることはできません。
「成年後見制度」が事業承継に不向きな理由
では、認知症になった場合の「成年後見制度」を利用すれば安心でしょうか。実は、これが事業経営にとって最悪の選択肢になりかねないのです。
家庭裁判所から選ばれる成年後見人の第一の使命は、本人の財産を減らさないように「守ること(財産の保全)」です。一方で、事業経営には、常にリスクを伴う意思決定(新規の設備投資、事業拡大のための借り入れ、不採算部門の売却など)が不可欠です。
財産を守ることを至上命題とする後見人が、リスクのある経営判断を承認することは極めて困難です。その結果、後見制度を利用した途端に、会社の経営は「守り」一辺倒になり、必要な投資もできず、事業の発展が止まり、むしろ衰退に向かってしまう危険性が非常に高いのです。
事業と資産を円滑に承継する「家族信託」という最適解
遺言や成年後見制度では防ぎきれない経営者の資産凍結リスク。この深刻な問題を解決し、事業と資産を円滑に次世代へ引き継ぐための有効な手法が「家族信託」です。
【凍結回避】信託で経営者の権限を後継者にスムーズに移行
家族信託とは、経営者(委託者)が元気なうちに、後継者であるご子息などを受託者として信託契約を結び、会社の株式や事業用不動産(アパートなど)を信託財産として託しておく仕組みです。
これにより、経営者ご本人に万が一のこと(認知症など)があっても、託された後継者は自身の権限で銀行との取引や不動産の管理・処分、各種契約行為を継続できます。事業が一日たりとも止まることのない、盤石な事業継続体制をあらかじめ築いておくことができるのです。
【争族回避】「経営権」と「財産権」を分離する妙技
家族信託が事業承継において特に優れているのは、財産の持つ権利を「経営・管理する権利(経営権)」と「利益を受け取る権利(財産権)」に分離できる点にあります。
例えば、会社の経営は後継者である長男に集中させたいが、財産は妻や他の子供たちにも平等に残してあげたい、というケース。信託を活用すれば、「自社株の議決権行使はすべて長男(受託者)が行い、株の配当金やアパートの家賃収入は、受益者である妻や他の子供たちにも分配する」といった、非常に柔軟な設計が可能になります。
これにより、後継者の安定した経営権を確保しつつ、他の相続人の「何ももらえない」という不公平感を解消する、円満な事業承継が実現できるのです。
【長期承継】二次相続以降の承継者も指定可能
家族信託では、最初の承継だけでなく、さらにその次の承継者まで指定しておくことが可能です。例えば、「自分が亡くなった後は、長男を後継者とする。その長男が亡くなった後は、孫の〇〇を次の後継者とする」といった形で、長期にわたる安定経営の礎を築くことができます。
おわりに:生前対策は、経営者の最後の「事業計画」
経営者にとっての生前対策は、単なる個人の終活ではありません。それは、これまで苦楽を共にしてきた従業員とその家族、大切な取引先など、多くの人々の生活を守るための、オーナーとしての最後の「事業継続計画(BCP)」です。
遺言や成年後見といった従来の対策では、事業の未来を守るには限界があることを正しく認識し、より能動的で柔軟な選択肢である「家族信託」を検討することが、今まさに求められています。
もちろん、その設計には会社法や税務といった高度な専門知識が不可欠です。ご自身の事業と家族の未来を守るため、事業承継に精通した司法書士や行政書士、税理士といった専門家へ、一日でも早く相談を開始することをお勧めします。
執筆者 池上行政書士事務所 池上 功(池上行政書士事務所のホームページ)