はじめに:なぜ今、デジタル遺品対策が「待ったなし」なのか
「終活の一環として、デジタル遺品のためにIDとパスワードを遺しておきましょう」 こうした呼びかけを、新聞や雑誌、インターネットの記事で目にしたことがある方は多いでしょう。しかし、「なぜ、そこまでして遺す必要があるのか」「もし遺さなかったら、具体的に何が起こるのか」を、深くご存知の方はまだ少ないかもしれません。
実は、パスワードを遺さないことによって生じる、**デジタル遺品特有の「見えない壁」**が存在します。この壁の存在を知らないままでいると、あなたが大切に遺したはずの資産や思い出が、ご家族を深く悩ませる原因になりかねません。
この記事では、まず遺族が直面する「3つの壁」の正体をひも解き、その上で、ご家族を本当に守るための具体的な対策を3つのステップでご紹介します。少し専門的な話も含まれますが、あなたの未来にとって、とても大切な知識です。ぜひ最後までお付き合いください。
遺族が直面する、デジタル遺品の「3つの壁」
対策を考える前に、まずは「何が問題なのか」を正確に知る必要があります。故人のスマートフォンやPCを前に、ご遺族の行く手を阻むのは、主に以下の3つの「壁」です。
【利用規約の壁】「故人のアカウントは相続できない」という原則
これが、最も多くの人が見過ごしている、根本的な壁です。 私たちが利用する多くのWebサービス(Google、Apple、SNSなど)は、利用開始時に「利用規約」に同意しています。そして、その規約の多くには”アカウントの権利は本人限りのもの”という旨の条文が含まれています。
これは、サービス提供会社とあなたとの間の「契約」です。 そのため、たとえ法的な相続人であっても、ご家族が「故人のデータを開示してほしい」と依頼するのは、この契約に反する要求となってしまいます。サービス提供会社は、ご家族よりも、故人本人との「プライバシーを守る」という契約を優先するため、原則として開示には応じません。これが、法的な権利だけでは越えられない、「利用規約の壁」です。
【技術的な壁】iPhoneはなぜ解除できないのか
次に立ちはだかるのが、特にスマートフォンで顕著な「技術的な壁」です。 現代のスマホ、中でもiPhoneは、本体データが常に強力に暗号化されています。その暗号を解く鍵は、あなただけが知るパスコードです。Apple社ですら、この鍵なしにロックを解除することはできません。これは、ユーザーのプライバシーを最大限に守るための設計思想の現れなのです。
Androidスマホも、最新のハイエンド機種であれば同様に極めてセキュリティとして堅牢に設計されています。パスコードが分からなければ、そのスマホは、思い出の写真も、大切な連絡先も、すべてが閉じ込められたままの箱になってしまいます。
【費用と時間の壁】専門業者に頼む、という最後の手段
「どうしてもダメなら、専門業者に頼めばいい」と考える方もいるかもしれません。しかし、これもまた大きな壁にぶつかります。
まず、前述の通り、最新のスマホのロック解除は専門業者でも極めて困難です。成功は保証されておらず、費用も決して安くはありません。調査の着手金に加え、成功報酬として数万円から数十万円を請求されるケースも珍しくありません。
多額の費用と時間をかけても、データを取り出せる保証はない。これが、専門業者という「最後の手段」の厳しい現実です。
以上の「3つの壁」を知ると、なぜ生前の対策がこれほどまでに重要なのか、お分かりいただけたのではないでしょうか。次の章では、この高い壁を乗り越えるための、具体的な第一歩を見ていきましょう。
対策の第一歩。「おカネ」に関わる遺品と「心」に関わる遺品に分けて整理する
第1章で「3つの壁」の存在を知り、不安になった方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ご安心ください。こうした問題も適切に対処をおこなえば深刻な事態にはならずにすみます。
その第一歩として、ご自身のデジタル遺品を、その性質によって大きく2つの種類に分けて考えることをおすすめします。それは**「『おカネ』に関わる遺品」と「『心』に関わる遺品」**です。
まず守るべき「おカネ」に関わる遺品
こちらは、その名の通り、あなたの財産に直接関わるデジタル情報です。放置すると、ご家族が金銭的な損失を被ったり、得られるはずの資産に気づけなかったりする可能性があるため、優先的に対策すべきものと言えます。
- 主な例:
- ネット銀行、ネット証券の口座
- 仮想通貨(暗号資産)
- AmazonプライムやNetflixなどの有料サブスクリプション
- 航空会社のマイレージや、各種サービスのポイント
- 電子マネーの残高 など
これらの対策の目的は、ご家族が速やかに「解約」または「資産の引き継ぎ」を行えるようにすることです。そのために必要なのは、サービス名、ログインID、そしてパスワードのありか、といった情報の記録です。有料サブスクリプションなどは、あなたが亡くなった後も、解約されるまで料金が引き落とされ続ける可能性があるため、特に注意が必要です。
次に考えたい、「心」に関わる遺品
こちらは、直接的な金銭価値はありませんが、あなたやご家族にとって、お金には代えがたい価値を持つ思い出や人間関係に関わる情報です。
- 主な例:
- iCloudやGoogleフォトなどに保存された写真や動画
- Facebook、X(旧Twitter)、InstagramなどのSNSアカウント
- 友人や知人とのメールのやり取り
- ご自身で書いていたブログや日記 など
こちらの対策で重要なのは、単にログイン情報を遺すことだけではありません。その情報を「どうしてほしいのか」という意思を明確に伝えることです。
例えば、「この写真データは、すべて家族に渡してほしい」「SNSアカウントは、友人への死亡報告の後に削除してほしい」「このブログだけは、公開したまま残してほしい」といった具合です。 これは、いわば**デジタルの形見分け**です。あなたの意思が分からないと、ご家族は「勝手に見て良いものか」「消してしまって良いものか」と、とても悩み、精神的な負担を抱えることになります。そこにあなたの意思表示が、示されていればその負担はたちどころに解消されます。
このように、まずは「おカネ」と「心」という2つの視点でご自身のデジタル資産を棚卸しするだけで、やるべきことが明確になり、漠然とした不安が、具体的なタスクに変わっていくはずです。
最も確実で安全な情報の遺し方
さて、ここまでの章で「何を」遺すべきかが見えてきました。最終章となる本章では、その大切な情報を「どのように」「安全に」遺すのか、という具体的な方法について解説します。 様々な方法が考えられますが、最も確実で安全な方法は、昔ながらの「アナログ」、すなわち紙に手で書き記すことをおすすめします。
最重要ポイント:「情報のありか」だけを伝える
アナログノートで情報を一元管理すると決めたら、重要なステップが残っています。それは、信頼できるご家族に、パスワードそのものではなく、「情報が保管してあるノートの場所」だけを伝えておくということです。
これは、ご自身の生前のセキュリティと、死後の情報伝達を両立させる、いわば「鍵」と「地図」を分けて管理する考え方です。
- 伝え方の例:
- 「もしもの時は、書斎の机の右側の引き出しに入っている、青いノートを見てください」
- 「大切なことは全部、エンディングノートに書いて、銀行の貸金庫に預けてあります」
こうして「情報のありか」だけを伝えておけば、あなたが元気な間はノートの安全が保たれ、いざという時には、ご家族が迷うことなくその情報に辿り着けます。伝える相手も、一人だけでなく、例えば「長男と長女」というように複数にしておくと、より確実でしょう。
おわりに:小さな一歩が、家族の未来を大きく守る
今回は、デジタル遺品に潜む「見えない壁」の正体と、その壁を乗り越えるための具体的な3つのステップ(①壁の理解、②情報の整理、③安全な保管)をご紹介しました。
デジタル遺品対策は、どうしても先送りして結局手つかずということになってしまいがちです。しかし、あなたが遺すパスワード一つ、メモ一枚が、ご家族を計り知れないほどの時間的、金銭的、そして精神的な負担から守ることになるに違いありません。
執筆者 池上行政書士事務所 池上 功(池上行政書士事務所のホームページ)