はじめに:事業承継の「時間」との戦い
オーナー社長にとって、自社が順調に成長していくことは、何物にも代えがたい喜びです。しかし、社の企業価値が高まれば高まるほど、自らの資産の大部分を占める「自社株式」の評価額も上昇し、将来、後継者が負担すべき相続税が増大していくという、新たな悩みが生まれます。
この問題への最もシンプルな対策は、株式価値がまだ相対的に低い今のうちに、後継者へ生前贈与してしまうことです。しかし、多くの現役社長にとって、それは同時に、経営の最終決定権である「議決権」を手放すことを意味します。会社の将来を想うからこそ、引退のその時まで、経営の主導権は自分自身で握り続けたい、と願うのは当然のことです。
もし、株式の持つ「財産的な価値」だけを先に後継者へ移し、経営に必要な「議決権」は、社長が引退するまで手元に置き続けることができたら…。一見、矛盾しているように見えるこの課題に対し、法的に有効な解決策を提示するのが「信託」の活用です。この記事では、現役社長が経営の主導権を維持したまま、将来の相続税対策を前倒しで進めることができる、戦略的な信託スキームについて詳しく解説します。
【モデルケース】引退はまだ先。でも相続税対策は今のうちに…
登場人物と会社の状況
ここに、急成長を続ける「X社」のオーナー社長Aさん(60歳)がいます。A社長はまだまだ気力も体力も充実しており、今後も5年から10年は、第一線で経営の舵を取り続けたいと考えています。後継者である長男のBさん(35歳)も、現在は取締役として経営に参画し、父であるA社長の経営手腕を学びながら、来るべき世代交代に備えています。
相続税と経営権のジレンマ
ある日、A社長は顧問税理士から「このまま会社の成長が続けば、将来の株価評価額は相当なものになり、B様の相続税負担が間接的に会社の経営を圧迫しかねません。対策は早めが肝心です」との助言を受けました。A社長は、会社の成長を確信しているからこそ、税負担が少ない今のうちに、株式の「価値」だけでも長男Bに移転させておきたいと強く願っています。しかし、それは経営権の源泉である「議決権」を譲り渡すことと同義です。まだ引退を考えていないA社長にとって、経営の最終決定権を手放すという選択肢はあり得ませんでした。「価値」の承継と「経営権」の維持。この二つを両立させる方法はないものか――。これが、A社長の抱える大きな課題です。
なぜ信託スキームを利用するのか?3つの重要論点
A社長が抱える「価値の承継」と「経営権の維持」という、一見、両立不可能な課題。これを解決する信託の仕組みを、3つの重要な論点から具体的に解説します。
【論点①】なぜ通常の「生前贈与」ではダメなのか?
まず、なぜ単純に株式を生前贈与するだけでは、A社長の目的を達成できないのでしょうか。それは、株式というものが「財産的な価値」と「議決権(経営権)」が一体となった権利だからです。通常の贈与契約で株式を長男Bに渡せば、その瞬間に議決権もBに移転してしまいます。A社長が経営の主導権を失うことになるため、この方法は選択できません。
【論点②】「所有」と「経営」を分離する信託の力
信託がこの問題を解決できるのは、株式が持つ権利を、法的に「役割」として分離できるからです。まず、A社長は信託契約を設定し、後継者である長男Bを「受益者」に指定します。受益者とは、信託された財産から生じる経済的な利益(この場合は株式の価値や配当など)を受け取る人のことです。この「受益権」をBに与える行為が、税法上の「贈与」にあたります。これにより、株式の「価値」だけを、先行してBに移転させることができるのです。
次に、A社長は、信託された株式を管理し、議決権を行使する「受託者」に、自分自身が就任します。これは「自己信託」という手法で、法的に認められています。これにより、会社のオーナー(株主)としての名義は受託者に移転しますが、議決権の行使者として、これまでと何ら変わらず会社の経営を続けることができます。つまり、「価値」は息子へ、「経営権」は自分へ、という分離が実現します。
【論点③】税務上の効果と注意点
このスキームの税務上の最大の効果は、将来の相続税負担の軽減が期待できる点です。信託を設定し、受益権を贈与した時点の株価で贈与税の評価額が確定します。そのため、今後会社の株価がどれだけ上昇しても、その上昇分はA社長の相続財産には含まれず、将来の相続税の課税対象から外れます。株価が低い成長初期の段階で実行するほど、その効果は大きくなります。
ただし、これは「非課税」になるわけではなく、あくまで「課税のタイミングを前倒しする」対策であることに注意が必要です。信託設定時には、その時点の株価評価額に基づいて贈与税の申告・納税が必要となります(暦年贈与や相続時精算課税制度の活用も検討します)。自社株の評価や税務申告には高度な専門知識が不可欠なため、必ず顧問税理士などの専門家と緊密に連携しながら進めることが、このスキームの前提条件です。
議決権維持型信託の「設計図」- 基本契約とスキームを理解する
それでは、これまでの論点を踏まえ、A社長の課題を解決する「議決権維持型信託」の具体的なスキームを見ていきましょう。これは、信託契約を作成する上での骨子となる事項です。
【目的】円滑な事業承継と、将来の相続税負担の軽減
信託契約書には、この信託が何を目的とするかということを明確に記します。
【契約書の条文イメージ】 第1条(信託目的) 本信託は、委託者の後継者である受益者への円滑な事業承継の準備として、委託者が保有するX株式会社の株式の価値を先行して受益者に移転させ、もって将来の相続時における受益者の税負担を軽減することを目的とする。また、委託者が経営の第一線から退くまでの間、受託者として当該株式の議決権を行使し、X株式会社の安定的・継続的な経営を図ることも目的とする。
【登場人物】委託者兼受託者(現社長)、受益者(後継者)という役割分担
このスキームを成り立たせる登場人物の役割は、以下の通りです。
- 委託者(財産を託す人): 社長A
- 受託者(株式を管理・議決権を行使する人): 社長A(自己信託)
- 受益者(経済的利益を得る人): 長男B
この設計の最大のポイントは、社長A自身が「委託者」かつ「受託者」となる点です。これにより、A社長は経営権を完全に手元に残したまま、株式の価値だけを「受益権」という形で長男Bに贈与することができます。
【財産】信託の核となる「自社株式」の取り扱い
この信託の核となる財産は、もちろん「自社株式」です。
- 信託財産: 社長Aが保有するX株式会社の普通株式のすべて(または、贈与したい分)
この株式を信託財産とすることで、株主名簿上の所有者名は「受託者 社長A」となります。しかし、議決権を行使するのはA社長自身であることに変わりはないため、実務上の経営には何の影響もありません。
【スキーム】モデルケースにおける信託の全体像
これまでの設計項目を統合すると、今回の信託スキームの全体像は以下のようになります。
【契約・贈与段階】 社長Aは、専門家の助言のもと、自身を受託者、長男Bを受益者とする「自己信託」を公正証書で設定します。そして、保有する自社株式を信託財産として信託します。この時点で、Bへの「受益権の贈与」が成立し、その日の株価評価額に基づいて贈与税の課税対象となります。
【社長Aの現役期間】 受託者であるA社長は、これまで通り100%の議決権を行使し、株主総会への出席や重要事項の決定など、会社の経営を全面的に担います。長男Bは受益者として、会社から配当が出ればそれを受け取る権利を持ちます。
【社長Aの引退・相続発生時】 信託契約には、A社長の死亡時などに、受託者の地位を長男Bに引き継がせる定めを入れておきます。その時が来れば、Bは受託者(議決権の行使者)と受益者(価値の所有者)の地位を併せ持つことになり、完全な形で会社の所有と経営を引き継ぎます。すでに株式の価値は生前に贈与されているため、その後の株価上昇分に対する相続税の心配はありません。
まとめ:社長のリーダーシップを、未来の安心へ繋ぐ
今回のポイントの振り返り
今回は、現役社長が経営の主導権を握り続けながら、将来の相続税対策を前倒しで進めるための信託活用法を解説しました。最後に、重要なポイントを振り返りましょう。
- 会社の成長は喜ばしい反面、将来の相続税負担を増大させるという課題も生じる
- 対策として有効な「生前贈与」だが、単純な贈与では経営権まで手放してしまうという大きなジレンマがある
- 信託を活用し、社長自身が「受託者」として議決権を維持しつつ、後継者を「受益者」として株式の価値だけを先行して贈与することで、この問題を解決できる⇒社長が元気なうちに、自らの意思で、将来の事業承継と相続対策の道筋をつけることが可能
信託は、現役社長が主導権を持って進められる、攻めの事業承継対策
事業承継というと、どこか「引退」や「終活」といったイメージがつきまとうかもしれません。しかし、今回ご紹介した信託スキームは、決してそうではありません。
これは、気力・体力ともに充実した現役の社長が、そのリーダーシップを最大限に発揮して、会社の未来、そして後継者の未来のために、今打つべき最善の一手を打つ、いわば「攻めの事業承継対策」です。
ご自身の存命のうちに、自らの手で、将来の不安の芽を摘み取り、盤石な承継体制を築き上げておくこと。それこそが、会社を創業し、成長させてきた経営者としての、最大の責任の果たし方と言えるのではないでしょうか。
信託を活用した事業承継についてより詳しくお知りになりたい方は、当事務所までお気軽にご相談ください。
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